駅→家への道すがら、すぐ前を歩いてたガイジン男性と日本人女性のカップル…。
男性が、英語で「お金を稼ぐことの意義」みたいなことを語って居た。
ぜんぶは理解出来なかったけど真面目に語ってて連れの女性は
ふんふん神妙に聞いてた。
ガタイもデカいが声もデカかった。
でもかっこよかった。
よく本とかに書いてある、
「日本人はお金について語ることを
卑しいとタブー視し過ぎた結果
やたら金融リテラシーの低い
国になってしまった」
とか言うのはもしかしたら
ほんとうかもしれないね。
と言うか、日本語はお金を語るのに
向かないんだね。余計な感情とか
ニュアンスがたくさん入りすぎる。
例えば英語だとおもいきり客観的に語るのに
向いて居るのかも。
日本人はディベートとかへたくそで
コミュニケーション力が低くて、
意見を否定されると自分自身を否定された
ような認識をしてしまい、委縮して
会話にならない…と言うのも、そもそも
日本語が客観的に意見交換する事に
不向きなことから始まってるのかも
しれない。
文学的表現なんかは
凄くうつくしいけど。
日本語は難しい。
なぜ客観的にモノを語ることに
不向きなのか、わたしにはよくわからない。
何か長い時間を掛けて培われた背景が
あるからだとは思うけど…。
仕組みをつくるのは、言葉だ。
言葉の定義が時代をつくると思う。
うつくしい日本語に守られているのも
私なら、いまいち客観的になりきれない
日本語に苦しんでいるのも私だ。
男性が、英語で「お金を稼ぐことの意義」みたいなことを語って居た。
ぜんぶは理解出来なかったけど真面目に語ってて連れの女性は
ふんふん神妙に聞いてた。
ガタイもデカいが声もデカかった。
でもかっこよかった。
よく本とかに書いてある、
「日本人はお金について語ることを
卑しいとタブー視し過ぎた結果
やたら金融リテラシーの低い
国になってしまった」
とか言うのはもしかしたら
ほんとうかもしれないね。
と言うか、日本語はお金を語るのに
向かないんだね。余計な感情とか
ニュアンスがたくさん入りすぎる。
例えば英語だとおもいきり客観的に語るのに
向いて居るのかも。
日本人はディベートとかへたくそで
コミュニケーション力が低くて、
意見を否定されると自分自身を否定された
ような認識をしてしまい、委縮して
会話にならない…と言うのも、そもそも
日本語が客観的に意見交換する事に
不向きなことから始まってるのかも
しれない。
文学的表現なんかは
凄くうつくしいけど。
日本語は難しい。
なぜ客観的にモノを語ることに
不向きなのか、わたしにはよくわからない。
何か長い時間を掛けて培われた背景が
あるからだとは思うけど…。
仕組みをつくるのは、言葉だ。
言葉の定義が時代をつくると思う。
うつくしい日本語に守られているのも
私なら、いまいち客観的になりきれない
日本語に苦しんでいるのも私だ。
コメント
でもねぇ、どうなんでしょう?
客観的なものってのは、最終的には、客観的だと主観的に認識されたものに過ぎないのでしょう?
どんな言語もツールである限りツールそのものをツールで再構築はできない。
思うんですけどね、
逆に言えば、主観以外に己以外の何かを定義する術を持たないのがヒトで正しい。
私は、日本語は好きですよ♪
だって、主語を持たずに文脈を構成することができるから。
それって、そのまま、日本語で思考することは最初から、客観のみで主観を構築するのに等しいと思ってますから。
(まぁ、英語やらエスペラントよりかは、余程、曖昧な代物を何かに規定することなく表現できるという意味では結構、優秀なんじゃないかなぁなどと思ってしまいますよ...もちろん、これは私の主観であなたにとっての客観なんですけどもネ♪)
日本語はややこしさを増幅させるというかシンプルな物の考え方の邪魔をする場合が往々にしてあるなぁ、と、結構な頻度で思います。
英語で同じ内容を話す方が楽な場面ありますよね。
こちらが日本人だから余計にそう感じるのかもですが。
日本語のメリットとしてはやはり心の機微を表現するとか、微妙なニュアンスをあらわすのには群を抜いてると思います。でも、ある意味排他的な面も持ち合わせているという気も最近してきました(´・_・`)
ビジネスツールとして見た時に、使い勝手がいいのは英語の方なのかな(^_^;)
まさにそんなかんじですよ…複雑に考えたいわけじゃなくても、日本語が微妙なニュアンスや機微を表現してしまう特性上、当事者が好む好まざるにかかわらず、″潜在意識レベルでなにかしら影響を受けてしまう″(思考・表現する際に)て言うイメージです☆